1900〜 誕生


クラブの起源はACミランと同じミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブである。 1908年、外国人選手の加入問題で内部分裂が起こり、インテルはジュゼッペ・ヴィスコンティ・ディ・モドレーネを会長として、世界中の選手に門戸を開くという意味の "Internazionale"というチーム名で、独立した。初代キャプテンのマンキティはスイス人だった。現在でもインテルとミランのファン同士には深い対立意識が根付いており、サッカーの事を表現するのにも、"カルチョ"と呼ぶミラニスタに対し、インテリスタは国際的な"フットボール"の方を用いる。インテルはクラブ創立のわずか2年後に初のスクデットを獲得したが、すぐに第一次大戦が勃発。2度目の スクデットに貢献したキャプテン、ヴィルジリオ・フォッサティは戦場で帰らぬ人となった。
1920〜 苦難の時代


第一次大戦が終わると、国民はカルチョに熱中した。1920年代後半から、ファシズムが台頭し始める。国粋主義を掲げるファシスト党にとって、国外に解放的なインテルは国敵だった。ムッソリーニはインテルを強制的に ミラネーゼ・ユニオーネ・スポルティヴァと合併し、クラブ名をアンブロシアーナに変更した。 伝統的な青と黒のユニフォームも白に赤い十字に塗り代えられてしまう。しかしティフォーゾは青と黒の旗を振り「フォルツァ・インテル」と応援していた。
1930〜 ジュゼッペ・メアッツァの活躍


一方、ティフォーゾの奮起により1932年、 サッカー協会は"Internazionale"の名称を承認した。クラブ名はアンブロシアーナ・ インテルとなり、チームカラーにも以前の金・青・黒が使われた。この時代のインテルにイタリア最高のFWがいた。ジュゼッペ・ メアッツァ。彼は1929-30、37-38シーズンのスクデット、1939年のコッパイタリアを はじめイタリアにワールドカップを2度もたらした国民的英雄である。

晩年は怪我に悩みACミランやユヴェントスを渡り歩くが、今でも インテリスタは彼を崇拝している。現在ミランと共有するホームスタジアム「サン・シーロ」は、1980年にその彼を称えて正式名称が「ジュゼッペ・メアッツァ」に変更された。1939-40シーズンには5度目のスクデットを獲得。未来は明るいと思われたが、そのわずか5日後にイタリアはナチスドイツと同盟を結ぶ。第二次世界大戦の幕開けは、カルチョに再び空白の時代を作った。
1945〜 カテナチオ


1945年、長かった大戦が終わり会長もカルロ・マッセローニに変わった。マッセローニはクラブ名を"Internazionale"に戻す。この頃から一般的に"Inter"(インテル)と呼ばれるようになった。50年代、インテルはアルフレード・フォーニ監督の下、それまでは 弱小クラブが起用していたカテナチオの応用に加え、ロレンツィ、スコグルント、ニエルスら豪華な攻撃陣と、"Kamikaze"と称されたGKゲッツィといったメンバーで、1952-53、53-54シーズンに2年連続のスクデットを獲得した。
1955〜 石油王と魔術師


1955年、"石油王"アンジェロ・モラッティが会長に就任。1960年にスペインからエレニオ・エレーラ 監督を呼んだ。エレーラはイタリアでは無名に近かったが、バルセロナではその手腕から"マーゴ(魔術師)"と呼ばれていた。エレーラはインテルにスアレスの獲得を依頼し、モラッティもそれを了承した。しかし最初は結果が出ず、モラッティもエレーラに最後通告を出す。守備に問題があると指摘されたエレーラは、ピッキ、ブルニッキ、ファッケッティを中心にしてカテナチオを完成品に仕上げた。そして マッツォーラ、スアレス、コルソ、ジャイールらの攻撃陣も上手く機能し始める。

1962-63シーズンには8度目のスクデットを獲得。63-64シーズンはボローニャにプレーオフに敗れてスクデットを逃したものの、チャンピオンズカップ決勝では、サンドロの2得点を含む3-1でレアル・マドリーに勝利。さらにイタリア勢では初となるインターコンチネンタルカップ優勝も果たした。1964-65シーズンもスクデット、チャンピオンズカップ、インターコンチネンタルカップをすべて制覇。65-66シーズンはスクデットのみの獲得となるが、世界中のクラブがその強さを羨んだ。
1970〜 グランデインテルの終焉


1970-71シーズンに11度目のスクデットを獲得するが、コルソやマッツォーラがチームから消え、78年にファッケッティが引退すると、"グランテ・インテル"の時代は幕を閉じた。1979-80シーズンにはアルトベッリ、ベッカロッシ、オリアリ、バレージらの活躍で12度目のスクデットを獲得して新たな黄金時代が期待されるも、それが訪れることは無かった。1984年、エルネスト・ペッレグリーニが会長に就任すると、彼はトラパットーニ監督にチームの未来を委ねる。

そして1988-89シーズンの13度目のスクデット獲得に貢献したマテウス、ブレーメと、89-90シーズンに加入したクリンスマンはドイツトライアングルを形成して、1990年のUEFA CUPに輝いた。しかしインテリスタはトラパットーニ監督の"実利的なサッカー"に満足しなかった。インテリスタは特別で、勝敗よりも常に"美しいサッカー"を求めているのである。
1990〜 再びモラッティ一族の手に


90年代前半は"ゴールの詩人ソサ、オランダコンビのベルカンプとヨンク、その他にもインスやロベルト・カルロスなど、多くの外国人スターがネラッズーリに名を連ねた。しかし毎年優勝候補に挙げられながら、その予想は1度も当たることはなかった。 1995年、インテルは再びモラッティ一族の子供となる。会長になったのはアンジェロの三男であるマッシモ・モラッティ。マッシモは父がそうであったように、惜しみなくその私財を投げ出し、チームを補強していった。
2000〜 そして現在


マッシモ・モラッティがオーナーになってからインテルに投資した約600億円という金額に対して、2005年までの9年間で獲得したタイトルは1998年のUEFAカップ1つだった。そして03-04シーズンには一度会長の座を降りる。新会長には当時の副会長であったジャチント・ファッケッティが選ばれた。ファッケッティはグランデ・インテル、そしてアッズーリの名キャプテンとして崇拝されており、人望が厚いことで有名だった。04-05シーズンからはロベルト・マンチーニを監督して起用。マンチーニはヴェロンやスタンコヴィッチ、ミハイロヴィッチといった子飼いの選手を中心にチームを再建していく。

04-05シーズンのインテルは、4度目のコッパ・イタリアを獲得。続く05-06シーズンも2年連続で同タイトルを制覇した。さらにこのシーズンはイタリアを震撼させる不正(カルチョ・ポリ)が発覚。1位のユヴェントス、2位のミランがペナルティを受けたため、3位のインテルにスクデットが降りてくることとなった。しかしマスコミの評価はあくまでも"棚ぼたスクデット"。インテルにはピッチで勝ち取るスクデットが求められていたのである。

翌06-07シーズンは、インテルにとって試されるシーズンになった。ジャチント・ファッケッティ会長
SEO ギフト 掲示板 レンタルサーバー ブログ SEO